神は愛された

31 Dec 神は愛された

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神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書3章16節(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

私がこの聖書箇所を初めて聞いたのは6歳か7歳のときだったと思います。幼い私がこの聖句を完璧に理解できたとはとても思えませんが、一つ一つの言葉に重みを感じたのは確かです。神様、愛、信じること、永遠のいのち。それぞれの概念がどのように結びついているのかはまだ分からなかったとしても、中心的なメッセージはしっかりと理解できました。「神様は僕のことを愛してくれているんだ!イエス様がそれを表しているんだ!」この神様の愛に思いをはせれば、こだまするように自分の心の中でも愛や感謝が湧き上がったものです。

しかし、そのような神様の見方も次第に変わっていってしまいました。成長し、聖書について学んでいく中で、私は多くの真理を知ったのですが、真理のうちに偽りも紛れ込んでいたのです。その偽りは次第に真理をも染めていきました。考え方の変わった当時の私にヨハネ3:16の意味を説明させれば「神は世を忌み嫌われていたが、世を愛せるように、そのひとり子を十字架で罰せられた」のように解釈していたことでしょう。このようないびつな理解のもとでもなお、神様に対する恩義のようなものは感じましたが、初めにあった愛はもはや消え、その代わりに恐れだけが残っていました。

その頃の私の想像の中では、憤りに満ちた父なる神様からイエス様が人類を守っていました。想像の中の神様は、私たちを永遠に滅ぼすことが本心だったのですが、イエス様が私たちの身代わりとなって苦しみ、私たちがそのことを信じるのならば、私たちの存在をしぶしぶ許してくれたのです。このゆううつな大誤解のために私は「神様の愛」の再定義を余儀なくされました。「神様の愛」とは、もはや神様が私たちを罰せず、天国にいることを仕方なく受け入れることを意味するようになっていたのです。

真理のイメージ vs. 偽りのイメージ

いま思えば、なんという誤解をしていたのでしょう!この箇所の中でイエス様は「神は、実に世を愛された」と言っています。しかし、私はそれを正反対の「神は、実に世を憎まれた」のように理解していたのです。神様が世を忌み嫌い、世を愛せるようにまず御子を犠牲にしなければならなかった、とどうして考えるようになったのでしょうか。その頃の私は罪人に対する神様の御心が見えぬままに、罪の現実だけが見えるようになっていたからだと思います。

思春期の私は、神様の良いおきてに従って生きることが自分にはできないのだということを痛感していました。どんなに努力しても、怠け癖やうそつき、情欲などの悪い習慣を断ち切ることができなかったのです。その頃の私は自分が犯す罪だけでなく、人が私に対して犯した罪にも苦しまされていました。これらの経験を通して私は人間とは生まれながらにして悪いことはできても、自力では何も正しいことができないのだと思うようになっていきました。自分と世界の罪深さを理解するようになったのは、いまでも正しいことのように思えます。そして、神様が罪を忌み嫌っていることは聖書にもはっきりと書かれているのではないでしょうか。

それらのことが事実だとしても、私は聖書の物語の中心的な真理を誤って理解していたのです。私は神様ご自身がどのようなお方であられるのかを完全に誤解していました!だれかが罪を犯せば、神様がその人を忌み嫌い、背を向けるのが当然のように思えますが、聖書の中で神様は罪を犯した者たちを愛し続け、むしろ追い求めるのです!

聖書に登場する人々は、罪を犯したときに、罪責感や恥、恐れのゆえに神様から隠れようとします。例えば、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた後に隠れていますが、神様はそんなアダムとエバを探し求めました(創世記3:8-9)。ヤコブも兄のエサウをだまして長子の祝福を奪った後に逃げていますが、そんなひきょう者のヤコブにも神様はご自分を表されました。ヤコブのすべての子孫においても、同じようなことが繰り返されています。イスラエルの民は数え切れないほどの失敗を重ねましたが、神様はめげずに彼らを追い求め続けられました。

ご自分の民を追い求め続ける神様の姿勢は旧約聖書を通して一貫しています。しかし、新約聖書におけるイエス様の登場では、その姿勢がさらに際立っています。1週間前にクリスマスで祝ったメシヤの生誕の奇跡はヨハネ3:16が指し示す真理のいわば始まりです。イエス様は「旧約聖書の怒れる神様」をなだめるためでも、その神様に取って代わるためでもなく、むしろ旧約聖書を通して実際には一貫していつくしみ深かった神様を現すために来られたのです。神様の「本質の完全な現れ」(ヘブル1:3)であったイエス様は、最も悪名高いような罪人からも離れようとはしませんでした。むしろ、当時全ての人にさげすまれていた売春婦や取税人、サマリヤ人などと親しくされました。

しかし、神様が罪人を愛するということは、罪を看過ごすことや正義を無視することと同一ではありません。私には正直なところ理解しきれませんが、聖書は神様の聖なるあわれみと聖なる正義の両方がメシヤの苦しみにおいて表されていることを物語っています。かといって、イエス様がその死を通して、憤りに満ちた父なる神様をなだめたのでも断じてありません。この理解は、いままで書いてきた通り、聖書の描く神様の姿とは矛盾するからです。事実、そのようなかたちで父なる神様とその御子イエス様が対立しているのであれば、「唯一のまことの神」とは呼べません。それはもはや別々の意志をもった小さな二神(ふたかみ)です。

私がまだつかみつつある決定的な真理はメシヤの苦しみが神様ご自身の苦しみであったということです。イエス様の十字架での死を通して、神様がご自身の愛を示されているのなら、イエス様と神様について切り離して考えることなどできません。イエス様は「見えない神のかたちであり」(コロサイ1:15)、私たちと同じ人間になることを通して罪の問題への対処をされたのです。創造主ご自身が被造物の代表となることを通して、あわれみが示されるのと同時に正義が果たされました。神様ご自身がイエス様を通して私たちの身代わりとなり、罪の結果をご自身の身に受けられたのです。

つまり、神様はたしかに罪を忌み嫌ってはいますが、同時に私たちのような罪人を愛し、追い求めておられるのです。イエス様が死なれたのは、神様から私たちに対する愛を勝ち取るためだったのではありません。むしろ神様は私たちをすでに愛しておられ、ご自身をイエス様を通して私たちのためにささげられたのです。

ヨハネ3:16の愛は2022年の私たちのための愛

神様についての誤った考えを取り除くということは、一度きりのことではありません。多くの場合、それは何年にも渡って繰り広げられるプロセスなのです。事実、私もまだそのプロセスの途上にいます。まだ捨てるべきうそもありば、見つけるべき真理もあることでしょう。だからと言って、落胆はしません。むしろ、いままで歩んできた道のりを振り返ったときに、これから先の旅路に対してワクワクせずにはいられないのです。神様を知るということは冒険のようなものです。皆さんも2022年、神様をより深く、より正しく知る冒険に出ていきませんか?

ヨハネ3:16が示すような愛の真理を知れば知るほど、罪責感や恥、恐れなどのわなから導き出されます。神様の愛の真理は、同時に私たちの非現実的で高慢な自己信頼を打ち砕きます。神様はこれら二つの道にはるかにまさる道、すなわち信頼の道で私たちを導かれたいのです。その信頼とは神様の救いの計画を頭の中で信じることだけではなく、私たちの救いを勝ち取られたお方に心からより頼むことを意味しています。それでは、その救いの「中身」とでも言えるものは何でしょうか。滅びから助け出されることも当然含みますが、それ以上のものです。イエス様は天のお父様への祈りの中で、永遠のいのちについてこのように言っておられます。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)。

「永遠のいのち」は「天国に行く」の同義語ではないのです。神様の愛と臨在の無い天国など、地獄とそう変わりありません。いえ、永遠のいのちを持つということは神様の御国のいのちを体験することを意味します。主と親しく知り合い、主の喜びが自分の喜びとなることを意味します。新しい天と地のいのち、イエス様ご自身の復活のいのちが自分のいのちとなることを指しているのです。イエス様に信頼を置いている者たちの永遠のいのちはもうすでに始まっています!

しかし、永遠のいのちをいま、完全に体験しているかというと、そうでもありません。過去一年を振り返ったときにその事実が身に染みます。というのは、この一年の中で真の喜びを感じたときもあれば、深い後悔を感じたときもあったからです。このように、自分たちの失敗と向き合うときにこそ、神様ご自身が私たちの過ちの結果をご自身の身に受けられたのだという真理を思い起こさねばなりません。自分のことを責め続けるのは、神様のあがないが十分ではないと言うのと同じです。私が何かの罪を犯した後、神様にもう一度受け入れられるために謝罪の祈りを準備したとします。神様はおそらく私の祈りを最後までは聞かず、むしろ私が話すのをさえぎって恵みを与えてくださることでしょう。神様は私たちが自分のことを責め、言葉でむち打つことよりも、私たちを抱きしめ、再び子として迎えることを望んでおられます(ルカ15:17-24)。

2022年を迎えるにあたって不安を感じている人もいるかもしれません。これからの一年の間にどのようなことが起こるのでしょうか。怒れる神様のイメージを持っていたら、日々の困難を破滅の前触れのように感じてしまいます。しかし、神様がご自身を犠牲にすることもいとわず、愛しておられるお方だと確信すれば、試練の中でも励ましと慰めがあります。ローマ8:1には、イエス様に属する者が「今や、……罪に定められることは決してありません」とあります。これが事実ならば、私たちが直面する困難が罰であることなど、もはやありえません。むしろ、神様は忠実な愛をもって私たちの痛みをもあがない、私たちをイエス様のかたちと同じ姿に変えてくださいます(ローマ8:28-29)。苦しむときにイエス様と苦難をともにしていることを知れば、やがてイエス様とともに栄光を受けるのだとも確信できます(ローマ8:17)。

私はヨハネ3:16の真理を無くして、新年を迎えることができません。最初にこの聖句と出会ったときに受け取ったメッセージを再発見できたことをとても感謝しています。神様は私を愛してくださいました。そして、その愛を表してくださるのがイエス様なのです。神様はイエス様を通して、ご自身を私にくださいました。私はこのお方に信頼を寄せ、いま永遠のいのちを生き、父なる神様と御子イエス様を知ることができます。新年を明日に控えた今日、皆さんが神様の愛の啓示を心に受け、励まされ、また力付けられることをお祈りします。

藤橋仰(ワイワム東京スタッフ)


※本記事の引用聖句は新改訳2017を使用しております。(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

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