25 12月 未解決の物語に続く意外な展開

皆さんは結末が無いままに終わってしまう映画を観たことがありますか?すべてを出し切った主人公に忍び寄る絶体絶命のピンチ!果たして運命やいかに?続編を観なければ分かりません。
旧約聖書も似たようなものです。その物語は決着もつかずに終わってしまい、読者はとてつもないモヤモヤ感に駆られます。次に何が起こるのでしょうか?知るには新約聖書を読まなければなりません。
未解決のまま終わる旧約聖書
神様は旧約聖書の第一章で世界を創造し、その世界にご自身の似姿に造られた人間を置かれます。世界は、人々が神様を信頼し、愛し、従うときにこそ栄えるように設計されていました。しかし、最初の二人であった男と女は、敵に惑わされ、神様の戒めに背いてしまいます。そして、その結果として、彼らが持つすべての関係(神様との関係、お互いとの関係、自分自身との関係、さらには被造世界との関係)が壊れてしまうのです。
ですが、神様は簡単に計画をあきらめるようなお方ではありません。その計画の実現のため、神様はアブラハムの子孫たちであるイスラエルの民を選び、彼らを通して世界のすべての国々を祝福することを約束されます。しかし、イスラエルの人々は、幾度となく神様の期待を裏切ってしまうのです。周りの国々を美しい変貌へと導くべき民が、周りの国々と見分けもつかないまでに落ちぶれてしまいます。イスラエル人は自らの蒔いた種を刈り取り、征服され、四方八方に散らされてしまうのです。
これが旧約聖書のモヤモヤ・エンディングです。神様はどのようにイスラエルの民との約束を果たされるのでしょうか?神様はどのように人間を救い、被造世界を再生されるのでしょうか?
新約聖書の物語が始まるころ、イスラエルの民はもうすでに4世紀もの間、神様からの預言(メッセージ)を受け取っていませんでした。預言の欠如の中で、人々の意見は分かれます。「聖戦を行えば、地上に神様の癒しと支配が来る」と信じる人たちもいれば、「敬虔に伝統を守れば、もう一度神様の特別な民と認められる」と信じる人たちもいました。また、自分たちだけの宗教的コミュニティーに引きこもる者たちもいました。そして、特権的な立場にいる者たちは、そのままでも満足だったので、現状を維持しようとしていました。
意外な展開で始まる新約聖書
話題作の続編が発表されれば、その展開についてさまざまな憶測が飛び交います。イエス様の登場は、旧約聖書のいわば続編についてのすべての憶測を見事に覆しました。
というのは、神様は計画を、意外な展開によって成就されたからです。人間を救い、世界を再生するために神様が選んだ道とは、「人間になる」というものでした。より具体的に言えば、「人間の赤ん坊となる」というものです。
イエス様は、聖霊によって身ごもった、おそらく10代前半の処女マリアから生まれます。マリアが「自分のお腹の中の赤ちゃんは神の子だ」と言っても、信じる人はほとんどいなかったことでしょう。婚約者のヨセフも、最初は彼女のことを信じれず、婚約を破棄しようとします。ですが、天使が夢に現れ、彼女の話を裏付けると、ヨセフは婚約続行を決心します。無論、それはマリアとともに「できちゃった婚」とうわさされ、蔑まれることを意味したはずです。
まだ若い二人は住民登録のためにベツレヘムに向かいますが、泊めてくれる家が見つかりません。住民登録のために大勢の人がベツレヘムに帰省していたからかもしれませんが、未婚の母とその子の父親であろう青年をだれも泊めたくなかったからかもしれません。結局のところ、マリアは家畜小屋でイエス様を出産したのでした。イエス様はゆりかごの代わりに飼い葉桶に寝かされ、彼の誕生を祝ったのは貧しい羊飼いたちと星占い師だけでした。
これらの展開は一見、狂ったことのようにも思えます。なぜ神様はこのような形で人となることを選ばれたのでしょうか?2000年に渡り、多くの答えが提起されてきたかと思いますが、私にはこの二つの理由が思い浮かびます。
まず第一に、神様が人間とならなければならなかったのは、神様が「人間を通して御業を成し遂げる」と強く決心されておられるからではないでしょうか。神様はその似姿に造られた者たちを見捨てはしません。壊れてしまっているこの世界に関しても同様です。神様は何がなんでも、世界を再生し、その中にご自身の愛と力を表す者たちとして人を住まわせたいのです。ですが、人がすべてを台無しにしてしまったので、イエス様は人としてすべてを元に戻さなければいけなかったのです。言い換えれば、イエス様は人として人類の犯してきた悪の責任を取り、イエス様は人として新しい人類の霊的な祖とならなければいけなかったのです。人間が敵に欺かれたのは紛れもない事実ですが、イエス様が人間として敵を決定的に打ち砕いたことも確実なのです。
もう一つの理由は神様がインマヌエルであるからだと思います。それはつまり、神様が本質的に私たちとともにおられたいことを意味します。神様は主であり、すべての権威を持っておられますが、それでも私たちのような被造物を人形のように操ったりはしません。神様はその目的を達成させるために強制的な手段を用いられません。むしろ、神様は被造物の体験のレベルにまでへりくだり、被造物がご自身を体験できるようにされるのです。神様は私たちの死の領域に入ってくることを通して、私たちをご自身のいのちの領域へと招いてくださいます。だからこそ、神様はクリスマスという意外な方法でこの世に来られたのだと思います。最初のクリスマスという圧倒的屈辱を体験されたので、イエス様は私たちの苦しみにも本当の意味で共感できるのです。イエス様のような神様は他にだれも存在しません。
クリスマスがもたらす希望
2020年も残りわずかですが、モヤモヤ感を抱えたまま年末を迎えている人も少なからずいるかと思います。もちろん、試練の真っただ中でも感謝の心を選びたいものではありますが、神様は「痛みをただ無視しなさい」と言われるようなお方ではありません。事実、今年はコロナ禍で、家族や友人を亡くされた人も多くいます。また、失業した人も多くいます。不確実なことがあまりにも多い一年だったので、たいていの人が多かれ少なかれ、恐れや不安と葛藤したのではなかったのではないでしょうか。平和な時でも、私たちは自身の罪やこの世の誘惑、敵の攻撃と闘わなければならないので、今年といったらなおさらのはずです。
では、今年のような難しい状況の中で、神様はどこにおられるのでしょうか?クリスマスという神様の物語の何とも意外な展開は明確な答えを示しています。神様は困難な状況のど真ん中でも、私たちとともにおられるのです!2021年にどのようなことが起こるのかはだれにもわかりません。2020年の残り一週間にどのようなことが起こるのか、さえもです!しかし、神様は私たちとともにいるためになら、どのような壁でも乗り越えられます。全能の神様が人間の赤ん坊として家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされたのなら、その神様はどのような犠牲をもいとわないことが分かります。神様は私たちと共感することを、ともに痛みさえも感じることを、これっぽっちも恐れられません。ですので、私たちが試練に直面しなければならないときには、私たちと一緒に試練に立ち向かう救い主がおられるのだと確信できます。失ったものを悲しむときも、私たちと一緒にそれを悲しむ救い主がおられるのだと確信できます。
これらのことは単なるきれいごとではありません。というのは、クリスマスの意外な展開が歴史における意外な展開であったからです。2000年前に神様は本当に人となられたのです。そしてその人となられた神様、イエス様は本当に死に、復活されたのです。この歴史的事実は、神様が救いと再生の大作戦を発動されたことを意味します。イエス様は肉体において復活し、天に昇られ、聖霊を送られました。私たちは、この朽ちゆく、古い世界においても、聖霊とともに新しい世界のとりでを築けるのです。神様は私たちのすべての壊れた関係を(ご自身との関係を、お互いとの関係を、自分自身との関係を、さらには被造世界との関係を)ひとつひとつ修復されます。そして、私たちは乗り越え方のわからない試練がやってくる時も、希望を持つことができるのです。というのは、イエス様が人として地上で始められた御業を、イエス様が再び栄光に輝く人として地上に帰ってこられるときに、完成させてくださると確信しているからです。
2000年前、神様はその完璧な忠実さを世にも奇妙な方法で現し、全世界の度肝を抜かれました。ですので、新年を迎えるにあたり、クリスマスという神様の物語の何とも意外な展開に励ましをいただきましょう。神様は私たちと同じ人間の一人となってくださいました。そのために、私たちは神様と一緒に来年を迎えることができるのです。
藤橋仰(ワイワム東京スタッフ)
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