光、あれ!

29 Oct 光、あれ!

「生涯の聖句」を尋ねられたら、私は創世記1章2–3節を挙げるでしょう。

地は茫漠(ぼうばく)として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。(聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会)

このように、御霊が「動き」(あるいは「舞いかけ」)、主のことばがあり、光は生まれました。私の人生においても、同じことが起こったと言えるでしょう。光を知る前の私は、闇に包まれているかのように感じていました。ですが、その闇の中で御霊が動かれ、愛そのものであられるお方から、一筋の光が差し込んだのです。そしてその光こそが、イエスと呼ばれるお方でした。まるでひらめきのような啓示が与えられ、イエス様は私の人生へと入って来られました。イエス様こそが光であり、その光は私の人生の隅々までをも照らしています。

人生につきものである苦しみや、神様との格闘を体験するときなどにも、人は暗闇を感じるものです。ですが、いずれの状況の中でも、主は同じ方法で働かれます。まず、御霊が動かれ、理性や言語を超越するかたちで光が差し込みます。知恵と慰め、理解力が与えられます。また、平安が訪れ、物事がはっきりと見えるようになります。力も与えられます。御霊に覆われ、御父が語られ、イエス様がご自分を現されるのです。この啓示のパターンが人生のあらゆる局面において、私を信仰の深みへと導きます。そこに疑いは、もはやみじんもありません。あるのはただ、自分にその事実が見えていようと、見えていなかろうと、「イエス様がともにおられる」という確信です。

この光のモチーフは聖書を成す各巻の文学に編み込まれ、現代においても見て取れます。世の光はいま、私のうちにあるのです。そして、それを信じるか否かは、私次第なのです。聖霊と御父は、いつもイエス様を私に現しておられます。この真理を知れば、私は「イエス様を見る」という選択が取れるようになります。また、光というものが瞬く間に暗闇を消せるのだと、信じることができます。闇は光に打ち勝てません。むしろ、闇が深ければ深いほど、光がまぶしく輝きます。その光こそが私のうちにあり、私を満たし、私から放たれようと待ち望んでおられるのです!

創世記1章2–3節を、「生涯の聖句」として挙げる人はあまり多くはないかもしれません。ですが、この聖句が神様と私の関係をいかに表しているかを説明すれば、神様を知っている人は皆、納得してくれます。神様の民はイエス様の臨在を知っているからでしょう。雲に隠れた星が、なおも輝いているのと同じように、闇に閉ざされていると感じるときも、いつもいつでも、イエス様はともにおられるのです。

アンジェラ・ナセゲセゲ(リーダーシップチーム・メンバー)

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